「代替医療のトリック」という非常に高価(3000円)ではありますが、一読していただきたい本があります。

年月を経て、この本が文庫本(840円)になり「代替医療解剖」と改題されて出版されています。

この本は患者さんはもちろん、これから代替医療のセラピストを目指す方、あるいは現在仕事にしている方に一読していただきたい本です。

ホメオパシーの真実、カイロプラクティックの真実,鍼の真実,ハーブ療法の真実などの項目がありとても読みごたえのある内容です。

現在の私のように読書が趣味のセラピストであれば、この中の情報が様々な本の中で引用されていることが確認できます。

代替医療の限界と効果が確認できる内容です。

大切なことは、症状が改善していたとしても病気が悪化して取り返しがつかないケースになる事を未然に回避することではないでしょうか?

私がセミナーや学校の授業で受講生に繰り返し伝えていることはまさにこの点なのです。

私が代替医療の一つであるカイロプラクティックに出会い,長い年月を経て「関節ニュートラル整体」を構築するに至ったかをこれから書いてみます。

私が修業を開始した時代は、現在と比較すると圧倒的に情報量がありませんでした。

どうして私がカイロプラクティックや他の代替医療の限界と有効性をご理解していただきたいかをこれから書いてみます。

私がカイロプラクティックに出会ったのは今から43年前でした。

その中で自分自身が治療を受けて最も効果を感じたテクニックである、モーションパルペーション&マニュピュレーション(動的触診法と手技療法)に出会いました。

ある偶然が重なって、その技術を実践していた先生のもとで6年間インターン生活をしました。

そのきっかけは、そもそも私自身が患者として大正時代に日本に伝わったカイロプラクティック(長生療術)を繰り返し受けたことによるものでした。

私は生まれ故郷の北海道で、3歳の時の遭遇したバイク事故(北海道)による頭蓋骨骨折と下半身のやけどを経験しています。

そのために幼少時から左下肢の神経痛に悩まされていました。

その後父の仕事の関係で13回引っ越しをしました。

転勤先の鹿児島県で中学も2回変わりました。

高校に入学したばかりの柔道の体育の授業で,それまで少林寺流空手を少し習っていたことがあったせいだったか,いきなり乱取りをしてみろと言われもつれるように倒れ、仙骨を強打しました。

その時はそのまま試合を続けましたが、翌日から左肩が上がらなくなり、やがて全身の激痛に見舞われるという体験をしました。

最初は整形外科で上がらなくなった左肩のレントゲン検査を受けましたが、骨は大じぃうぶであるという診断を受けました。

症状が悪化するばかりでしたので、町で評判の接骨院で丁寧な触診を受けて、頸椎と腰椎の圧迫骨折かもしれないといわれました。

確かその時に激痛は4週間続いたように記憶しています。

「念のため3か月間は空手をやめて通院するように」と言われたので指示通りに守りました。

ところがその1年後に全身のしびれが起きるようになりました。

鹿児島大学附属病院,東京女子医大で精密検査を受けましたが、まったく正常と診断されたものの、平均すると年間で2回、2週間寝たきりになる奇妙な症状がなんと40歳まで続いたのです。

私がカイロプラクティックを原点に持つと思われる長生療術をマスターしたセラピストに出会ったのは今から44年まえのことです。

その時に頸椎に対するアジャストを受けて左肩の痛みが劇的に改善された経験をしました。

その体験がきっかけとなって小田急線の成城学園前にあるその先生の治療院に言われたとおりに通院しました。

ところが残念ながら、痛みには効果があったものの正体不明のしびれは全く改善することはありませんでした。

しかしながら正規の医療を受けても全く効果がなかった症状が改善した長生療術に強く興味を持ち、雑色(京浜急行)と生麦にある長生学園に入学したのです。

その時に私が鹿児島県立加治木高校の卒業生だということを話すと、鹿児島県立鶴丸高校出身の神宮司先生という事務長が「実は長生療術のもとはカイロプラクティックなんだよ。君はカイロプラクティックの重鎮の先生のもとで修業したらどうだろうか?」と進めていただいたことがきっかけでした。

これが私がカイロプラクティックを学び始めたいきさつなのです。

私が脊椎矯正の手技を受けた先生は長生療術の治療院で修業した方でしたが卒業した学校はなんと浪越徳次郎先生のが創設者である日本指圧学校でした。

また私が修業したのは長生療術の治療院ではなくて、カイロプラクティックをメインで行う接骨院でした。

この様に様々な偶然に導かれて,「なぜ痛みは取れたのに、安静に寝ていれば取れるしびれは改善しないのだろう?」という疑問の解決法をを探求するために,修行の道に入ったのでした。

その当時はまだ19歳でしたし、本当に世間知らずで純粋だったので、事務長の助言に従って、すんなり修行することを決めたのです。

そこでの6年間のインターン生活を経て自信満々で茨城県で開業したのが今から36年前のことなのです。

私の修業時代の仕事量は、それはそれはすさまじいものでした。

早朝から夜までインターン生活をしていただけではなく、それこそ睡眠時間を削って治療のアルバイトをしていたのでした。

最後の3年間は茨城県の牛久市にひと月に2回帰省し、最低でも土日で40名は治療していたのです。

したがってひと月に延べ200名を下ることはありませんでした。

いま考えると本当によくできたと思いますし、もう二度としたくない経験です。

修業時代のご褒美にアメリカのシカゴにあるナショナル大学に研修旅行(解剖実習とカイロプラクティックのテクニックの研修旅行でした)に行かせていただきました。

そこで私が学んだモーションパルペーション&マニュピュレーションを当時ナショナル大学に留学していた故安藤DCと山根DCに披露し筐体されたことを昨日の事のように思い出します。

その当時でも筋肉と関節の調整において世界のだれにも負けないほどの知識と技術と経験値があったとひそかに自負していました。

その理由は,自分は世界一の練習量をこなしているという思い込みによるものでした。

私は専門学校での解剖実習がわずか一日しかないのを疑問に感じその後も人体解剖の研修を目的として2回アメリカのカイロプラクティックの大学でお世話になりました。

そんな中で、自分が最高の技術と思い込んでいるモーションパルペーション&&マニュピュレーション(動的触診法と手技療法)は完成された技術ではないのかもしれないという疑問を持ちました。

カイロプラクティックが病気に効果があるなんていうことは、基礎医学を学べば誰でも疑問に感じると私は思います。

しかしながら関節の痛みに関しては他の代替医療とは比較にならないレベルであることは疑問の余地がありません。

恥ずかしながら私自身も毎日の仕事に追われ、なんとなくカイロプラクティックの限界かもしれないとな半ばあきらめかけていました。

そんな時に人生観を変える出来事が起きたのです。

それは阪神淡路大震災の前の年の出来事です.

放火による自宅兼治療院の全焼火災でした。

私も一時は犯人探しをしました。

しかしながら事件性がなかったので警察や消防も科学捜査はやってくれませんでした。

悩んで悩んで苦しみ抜いた末に,「すべての不幸の原因は自分自身にあると考え、自分自身を変えていこう」という思いに落ち着きました。

その1年後に考案された技術が現在の「関節ニュートラル整体」です。

私が人並み以上に読書を始めたのは50歳になってからです。

それは関節ニュートラル整体を正しく伝承するために必要不可欠と考えたからです。

考えてみればセラピストに必要な本を読んでいれば遠回りしなくて済んだケースも多いのです。

そのような理由で、皆さんに様々な本を読むことをお勧めしているのです。