カイロプラクティックが誕生したのは1895年。

1868年が明治元年ですから37年後です。

カイロプラクティックが日本に伝わったのは大正時代。

私は日本カイロプラクティック総連盟の第3代会長であった竹谷内米雄の元で10年修業をされた、荻窪の山本基晶先生(昭和9年生まれで現在88歳になられます)のもとで6年間修業させていただきました。

今から44年前のことです。

45年前に短期間のアルバイトをした時の時給が250円でした(ちなみにバブル時代は550円)。

初任給が確か7万円程度だったと記憶しています。

昼間に夕方まで働いて夜は生麦事件で有名な生麦にある長生学園の夜間部に通学させて頂きました。

その学校は手技療法(脊椎矯正)とプラナ療法と精神療法が学べ卒業と同時に按摩・マッサージ・指圧師の国家資格の受験資格を得られる日本で唯一の学校です。

まず最初に長生学園を尋ねたところ、そこの事務長であった神宮寺先生が鹿児島県の鶴丸高校出身であったことから、同じ鹿児島県の加治木高校出身の私に「実は長生療術の元はカイロプラクティックなんだから君はカイロプラクティックの勉強をしたらどうだ」と勧められたことがきっかけでした。

長生学園を尋ねる前に、東京の成城学園前にある藤木治療院で合計100回長生療術による脊椎矯正を受けたことが入学の動機でした。

3歳の時の遭遇したバイク事故による頭がい骨骨折。

16歳の時に柔道の乱取りで起きた脊椎の圧迫骨折。

それまでに合計5か所の骨折を経験しその後遺症に17歳から40歳まで悩まされました。

私の症状は脊柱管狭窄症。

麻痺や排尿困難、肛門付近のほてりはない物の、定期的に年2回起きる全身のしびれに悩まされてきました。

整形外科の治療。

接骨院での治療。

鍼灸。

断食道場での断食やヨガ。

密教の加持祈祷。

とにかく効果がありそうなことは何でも体験してみました。

その中でも最も効果があったのが長生療術のアジャストメントだったのです。

私がS,シン。E,エルンスト「代替医療解剖」(新潮文庫)を勧めるのは自分で体験した無駄なことを皆様に体験してもらいたくないからです。

このようなきっかけからカイロプラクティックのもっとも効果のあるテクニックを学びました。

それがモーションパルペーション&マニュピュレーション(動的触診法と手技療法)だったのです。

私が最初に6年間修業した杉並区荻窪の山本先生は当時最先端であったもーーションパルペーション&マニュピュレーション(以下MPと省略します)の先駆けであり権威だったのです。

私の症状は2週間ほど寝ていることで改善する全身のしびれでした。

例えると深酒して泥酔したときのような症状が、時間が経過すると元に戻るようなものでした。

アジャストメントが一番効果があったのだから、これを極めたセラピストに治療してもらえれば回復するのではと期待しました。

ところがパーマー大学やナショナル大学を卒業した有名なDC(カイロプラクティックのドクター)の治療を受けても、改善することはありませんでした。

成田山の新勝寺(密教のお寺です)の大教上の位を会得したお坊さんに「この症状は功徳を積めば改善する」と言われました。

そのお坊さんに名前を解明していただき、方位除けまでして新築した家が放火による全焼火災に見舞われました。

時代がバブル崩壊の前だったことで、売り上げは順調に伸びました。

世の中はインフレでしたので、ほとんどの職業が頑張れば来年はよくなる時代だったのです。

そんな時に起きたのが自宅の放火による全焼火災だったのです。

このことがきっかけで、解剖学や生理学の基本を学びなおしPNF(固有受容性神経筋促通手技)を独習し「PNF整体」を考案しました。

その一年後に、全身の関節の弾力を検査し調整するケアシステムである「関節ニュートラル整体」を考案しました。

それから20年技術をより研鑽し、現在の究極の技術が完成したのです。

これからこの技術の神髄を伝承し、これからの日本を担うセラピストの育成に全力をささげるつもりです。

「関節ニュートラル整体」は現在の超高齢化社会に十分に適応できる世界に類を見ない技術です。

現役である限り進化をやめれば技術は退化します。

それがわかっているので、たくさんの本を読み、人に出合い、日本中に技術を広めることを継続します。

今度の日曜日は協会認定セミナーレベル2。

テーマは緩和操作です。

関節ニュートラル整体は関節の調整だけではなく、軟部組織の調整もすべて学ぶ必要があります。

手技療法とリハビリテーションの応用発展形を皆様もマスターし、社会貢献できるセラピストになりましょう!